ホテル・ウクライナ
Yuriy Shurchkov/500px/Getty Images第二次世界大戦の終結後、スターリンは首都の大改造に着手した。モスクワを国の「ショーウィンドウ」にするために彼が考えたのは、初の高層ビル建設という、当時としては破格の規模の建築構想であった。一連のビルが「スターリン建築」と呼ばれる所以である。ソ連の偉大さと成功を象徴する建築となる筈だった。スターリンは次のように語ったとされる。「皆アメリカに行って、なんて巨大な建物なんだと息を呑む。これからはモスクワに来て、なんて巨大な建物なんだ、と息を呑めばいい」。
スターリン高層建築はアメリカの高層ビルと比較されることが多いが、その建築スタイルは独自カラーが強い。正確には、多種多様なスタイルをミックスさせたもので、その建築様式は後に「スターリン・アンピール」と呼称されるようになる。特徴は、モニュメンタリズムと豪華な装飾にある。スターリン・アンピール様式について、詳しくはこちらの記事を参照。
スターリン高層建築は全て、1947年のモスクワ建都800周年に合わせて起工された。ただし、竣工時期はまちまちだ。当初の計画では、同様の高層ビルは8棟が予定されていた。モスクワの歴史100年につき1棟というわけだ。しかし完成したのは7棟で、ザリャージエに予定されていた最後の1棟は解体された。
7棟の高層ビルはモスクワの概ね中心部に点在しており、市内のほぼあらゆる角度から見える。
当初から、高層ビルの用途は多様だった。住宅もあれば、省庁が入居したビルもあり、大学やホテル、果ては地下鉄駅まであった。それぞれ外観はかなり似通っており、地元の人間でなければ区別は容易ではない。
スターリン様式高層ビルの中で最大のものは、雀ヶ丘に建つ235メートルのものだ。当初から、最高学府である国立モスクワ大学のメイン建築として予定されており、同大を1万人収容の一種の町として建設した。ソ連初の大学キャンパスである。その敷地内には講堂、寮、図書館、郵便局、店舗、食堂、プール、電信局など、必要なインフラは全て揃っている。その気になれば、学生は一切キャンパスを離れずに学生生活を送れた。
全てのスターリン高層ビルはソ連の偉大さを象徴する役割を担っていたため、その装飾性には惜しみなく予算が投じられた。モスクワ大学も円柱や塑像、モザイクといった装飾が施され、建設費用は実に26億3120万ルーブルもの巨額になった。5階建てパネル住宅で構成された人口4万人規模の小都市の建設費用とほぼ同額である。
建設に囚人が動員されたのは事実か?一部の学部が新キャンパスに移転しなかった理由は何か?キャンパスを散策可能か?などといった疑問は、こちらの記事を参照。
コテリニチェスカヤ河岸通りのスターリン様式ビルは、窓がクレムリンの方角を向いている。それだけに、このビルの建築史も奇妙だ。強制収容所の囚人が建設作業に動員され、1953年まで建築現場に収容所が存在した。それも、クレムリンからたった900mの場所に、である。逃亡防止のために全周に高さ3mのフェンスと、5重の有刺鉄線が張り巡らされ、50cmの警告ゾーンが設けられた。
完成したビルは高級住宅となり、「身内」とされる人々に割り当てられた。「身内」と判断された人々はソ連内務人民委員部(NKVD)や内務省(MVD)の役人たち、核物理学者、軍人なおで、この建築のステータスアップのために文化人も多く入居した。そのため、この住宅は撮影用にもたびたび使用され、有名な映画やドラマなどに登場した。
ここで撮影された映画や、入居していた有名人、そして一部の住人に不評だった理由については、こちらの記事を参照。
外務省の建物は、当時としては技術の粋を集めたものだった。建設時、下から上へではなく、上から下へ建設していったのである。骨組みにコンクリートを打設する工程は地上172メートルの上階から行われ、固まるのにつれて1階ずつ下へ作業が進められた。これは、歴史的街区で極めて狭小な範囲に作業現場を設置する必要性から生まれた工夫だった。
外務省の建物は仲間の内で唯一、頂上に五芒星の装飾を持たない。これにはちゃんと理由があったが、そのためにフルシチョフ時代になってから、この建物は「スターリンの愚かさの記念碑」などと呼ばれるようになってしまった。美しい建築がそう呼ばれるようになった経緯は、こちらの記事を参照。
尖塔を含めても高さ139mと、7棟の中では最も低い。これ以上高くするのはリスクが大きすぎた。建物は10mの鋳鉄製の杭の上に建設されており、その杭の真下には2つの地下河川が流れていた。沈下を防ぐため、建物自体も比較的軽量にされた。
ホテル・レニングラーツカヤの様式は、他のスターリン高層ビルとは少し異なる。内装は中世ロシア建築の強い影響が見られる。エレベーターホールは祭壇のニッチを模した設計になっており、メイン・エントランスは望楼の張り出し風といった具合だ。壁面の白・赤・金の配色も、ロシアの古い建築様式に倣ったものだ。
だが、この建築が批判されたのは、そのスタイル故ではない。スターリンの死後に厳しい批判に晒された経緯については、こちらの記事を参照。
この建物はプロジェクト段階から、地下鉄への入口を建物内に設ける予定だった。他のスターリン様式ビルには無い挑戦である。
クラスヌイエ・ヴォロータのビルは居住区域と管理区域に分けられ、地下鉄の入口は建物を彩る特徴となるはずだった。しかし、建設には困難が待ち受けていた。通常は、まずは地下鉄駅ホームを含む全ての地下空間を建設してから、地上部分の建築に着手する。しかしソ連政府は1年半の工期を惜しんだため、地下鉄と地上ビルを並行して建設するという、驚くべき手法を取ることになった。
そこで、土壌を凍結させた上、地上のビルはピサの斜塔よろしく予め傾斜させて建設することになった。この冒険的な建設について、こちらの記事に詳しい。
クドリンスカヤ広場のビルはかつて、モスクワでもっとも豪華な住宅だと考えられていた。完成はスターリン死後の1954年。非公式ながら「パイロットの家」と通称されたが、これは、入居者の大半がパイロットや航空機の設計士、航空企業の幹部などであったためである。
入口ホールに並ぶ大理石の円柱や、ステンドグラス、部屋の樫の木材のフローリングなどは、入居者の特別なステータスの証しだった。また、豪華な食料品店「ガストロノム№15」も同じ建物に入居していた。国内最大の食料品店で、一般には品薄な商品も常にストックしてあった。
そして何よりこの建物を特別なものにしているのは、その地下壕である。詳しくは、こちらの記事を参照。
1953年当時、この場所にはクトゥーゾフ大通りなど影も形も無く、点在するバラックと沼があるだけの、モスクワの町外れだった。しかしスターリンはこの地に模範的な地区の建設を思い立ち、その建設は荘重な高層ビルの建築からスタートするべきと決めた。
1957年の開館当時、ホテル・ウクライナはヨーロッパ最大級のホテルだった。部屋数は1026。外国人旅行客に必要な、ほぼあらゆるサービスが揃っていた。そう、このホテルは外国人を主要な顧客層として想定していたのである。ここに泊まれるソ連人は、ひと握りの選ばれた人々だけであった。
1989年にモスクワ・ミュージック・ピース・フェスティバルが開催されると、ホテル・ウクライナには多くのロックミュージシャンが宿泊した。Bon Jovi、Cinderella、 Mötley Crüe、そしてオジー・オズボーンと、ビッグネームが並ぶ。
最も、滞在した彼らの評価はあまり芳しくなかったようだ。ホテル・ウクライナとその宿泊者について、詳しくはこちらの記事を参照。
8つ目の高層建築の設計案
Public domain8つ目の高層ビルは行政の建物になる予定だった。クレムリンの城壁のすぐ近く、ザリャージエ地区で起工し、そのために中世以来の街区が撤去された。
ビルの高さは、設計案が改められるたびに高くなり、当初の26階建てから37階建てまで伸びた。しかし同時に建設費用も上がり続け、ついにはプロジェクトの首を絞めることになった。建築家たちが最終的な試算を提出しないうちに、意志決定者であったスターリンが死去したのである。すでに建設に着手してはいたが、予算が定まらない以上、14階までの骨組み以降は作業が進まなかった。
いよいよ最終的な見積もりが提出される頃には、国の新たな指導部は、過度に華美であるとして計画を撤回した。
その後、骨組みは解体され、その基礎の上にホテル複合施設「ロシア」が建設された。これも解体されて、現在は「ザリャージエ公園」となっている。詳しくは、こちらの記事を参照。
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