ロシアの一部の少数民族には、20世紀に至るまで土着の呪術的な信仰が生活の中に残されていた。
チュクチ人が「ネフトゥムグィト」と呼んだこの風習は、民族学者によって「妻を共有する友好関係」という意味で訳されている。チュクチでは、男性たちが友情の契りを交わすことによって、互いの妻に対する権利を有していたのだ。驚くべきことに、この「契約」には10組以上の夫婦が同時に参加することもあった。契約を交わした男性たちの間では、友人の妻を数ヶ月「借り」て、その後「返す」ことができた。しかし、妻が夫のもとへ帰らず、そのまま友人と暮らすということもあったようだ。生まれた子どもたちは共有され、友情の契りを交わした男性たちは本物の兄弟のようにみなされた。ただし、血を分けた実の家族や親戚とこのような関係は持つことは禁じられており、その範囲はまたいとこ(はとこ)にまで及んでいた。
1924年発行の新聞「北極星」に、民俗学者クリコフによるチュクチ半島からの調査報告が掲載されたが、そのインタビューの一つを見ると、チュクチの女性はこの風習に対して肯定的であったことがわかる。「新しいトナカイに乗るほうがいつも楽しいもの」と、周りを囲むチュクチの人々がどっと笑う中、ある集落の女性がクリコフに語っている。この「妻を共有する結婚」は、最初の結婚(一組の男性と女性によるいわゆる「普通の」結婚)と同じようにさまざまな手続きを経て正式に為されたが、その他にもチュクチでは、自分の妻を客人に勧めることもできた。客人が妻と二人で家にいる間、夫はしばし外へ出ていたのだ。
この風習は極北の厳しい生活条件のもとで生まれたものだ。集団婚は子孫繁栄と遺伝的多様性を確保するために発生した側面があり、そのようにして集団の存続可能性を高めた。また、一家を養う男性が亡くなった場合でも、残された妻子が孤立することはなく、子どもたちは他の家族からも実の子のように扱われた。
この風習は 「隠すこと」 または 「避けること」という意味の名で呼ばれ、花嫁の母が娘婿に対して守っただけではなく、花嫁が花婿の年長男性の親戚に対しても守った。縁談がまとまると、花嫁はスカーフで顔を覆って人前に出るようになり、さらにいくつかの変わった条件を守らなければならなかった。花嫁は、花婿の男性の親戚の前では常に靴を履かなければならず、裸足でいることは禁じられていた。また花婿の父やその兄弟がいる場では、ささやくように話さなければならず、声を「隠す」必要があった。花嫁の母も同様に、娘婿を「避け」なければならなかったが、時には思いもよらない形をとることもあった。ソ連の民族学者ゾヤ・ソコロワが記録している例では、顔を覆うスカーフを持っていなかった花嫁の母は、下着を身に着けていなかったにもかかわらず、スカートの裾をめくって顔を隠したそうだ。
顔を覆わなければならないのは、ハンティ独自の信仰が理由だ。女性が隠すべき4つの魂のうちのひとつが、頭にあるとされていたからである。残りの3つはそれぞれ肩、お腹、足にあった。だからか、人前で赤ん坊に乳を与えることは問題にならなかった。乳房は単に子孫を育み、個体を再生産するのための器官と受け取られていた。
かつてカレリアには「レムビ」と呼ばれる土着の信仰があったが、後にこの言葉は女性としての外見的魅力、純潔を含む名誉、美しさを指すものとして用いられるようになった。言い伝えでは、「レムビ」は他の女性に分けることができるもので、結婚式の際に花嫁がバーニャに入るときは、花嫁の姉妹や女友だちが一緒に身を清めた。花嫁と同じお湯、同じヴェニク(木の枝の束)を使い、その後花嫁のお下げ髪に自分たちのリボンを編み込むことでその「魅力」を分けてもらった。
この呪術的な風習はカレリアに20世紀初頭まで存在していた。夫婦の絆を確かなものにするため、結婚式の際バーニャで花嫁を清めた水または牛乳を使って生地をこね、それを焼いたピローグが花婿にふるまわれた。
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