ソ連の労働者が台湾の総統に:高度経済成長を成し遂げた蒋経国の数奇な運命

ロシア・ビヨンド, Legion Media, Sputnik, Public domain
 台湾の高度経済成長を成し遂げた蒋経国(1910~1988)は、かつて長年にわたり共産主義を熱心に標榜していた。しかし、国共内戦後に台湾に退くと、父、蒋介石の意向で、特務機関の元締めとして、共産党組織の弾圧に辣腕を振るうことになる。

 1978年、台湾島にある中華民国(ロシアは国家承認していない)の総統の座に、ユニークな経歴の人物が就いた。彼はかつてウラルの工場で単純労働に従事しており、ソ連共産党員ニコライ・エリザーロフとして知られていた。遠いロシアからやって来た世界革命の支持者がいかにして、アジアの反共産主義の国で最高権力者になったのか?

 実はエリザーロフは、ロシア人でも共産主義者でもなかった(少なくとも 1930 年代後半以降は)。この仮名でしばらくソ連に暮らしていた人物は蒋経国。中国国民党永久総裁である蒋介石の長男だ。ちなみに、現在、中華民国を国家承認し、公式の外交関係を持つ国連加盟国は、13か国。

新たな祖国

 1912 年に清帝国が崩壊すると、中国は混乱状態に陥った。強力な中央集権型政府は存在せず、各地にいくつかの軍閥が割拠していた。こうした国家の危機の克服を目指した大勢力の 1 つが、国民党だ。

 1925 年、蒋介石は、孫文の死を受けて、国民党の指導者となる。彼は、前任者の孫文と同じく、中国統一に向けての戦いにおいてソ連を頼りにしていた。ソ連もまた、急速に勢力を伸ばしている国民党と協力して、自国の影響力をこの地域に広げたいと考えていた。このようにソ連は、ナショナリストに依存していたので、より弱小の中国共産党に対し「国共合作」を強いることさえした。

蒋介石

 ソ連政権は、彼らに友好的な中国人たちを、ソ連内で熱心に教育していた。そして1925年に、蒋介石の息子、蒋経国がモスクワにやって来る。当地で16歳の少年は、レーニンの姉アンナ・エリザーロワ=ウリヤーノワとしばらくいっしょに暮しているうちに、ロシア人らしく聞こえる仮名「ニコライ・エリザーロフ」を思いついた。

蒋経国(左)と蒋介石(右)

 ソ連の首都で蒋経国は、中国革命を担う人材の養成を目的に創設された「モスクワ中山大学」に入学。そこで、共産主義中国の将来の指導者の1人である鄧小平とともに学んだ。蒋経国はまた、カザン戦車学校とレニングラード(現サンクトペテルブルク)の軍事・政治アカデミーで研修し、工場「ディナモ」の工作機械で働いた。

 ロシア語を完璧に身につけたエリザーロフこと蒋経国は、新たな環境に順応した。一方、彼の父親は当時、いわゆる北伐により、国民党の旗の下で中国を事実上統一する。北伐は、軍閥と弱体な北京政府に対して行われた。

 ところが、1927 年 4 月 12 日、状況は一変する。誰とも権力を分かち合う気のない蒋介石は、同盟者を突然攻撃した。すなわち、中国共産党員の大量逮捕と処刑を手配し、共産党員を地下に追いやった。こうした行動をソ連が見過ごすはずはなく、同年12月、両国の外交関係は断絶する。

ウラルの労働者

 事件に衝撃を受けた蒋経国は、困難な立場に陥った。彼は直ちに父親と公に絶縁し、その行動を非難した。蒋介石の息子は、粛清されず、しばらくの間、モスクワ州のコルホーズ(集団農場)で働いた。

 しかし、ソ連の独裁者スターリンと中国の指導者との隔たりは増していった。そこで、ソ連が指導した国際共産主義運動の組織「コミンテルン」において中国共産党の代表を刺激しないように、1932年にエリザーロフ(蒋経国)は、首都から遠いウラルのスヴェルドロフスク市(現エカテリンブルク市)に送られた。

 ウラル重機械工場(ウラルマシュ)に入ると、蒋経国は、工場長の助手(社会問題担当)となり、労働者の日常の問題に対処した。その後、彼は、地元の新聞「重機械」の編集者になる。

ウラル重機械工場(ウラルマシュ)にて

 私生活も整っていく。1935 年、彼は同じ工場で働いていたファイナ・ヴァフレワと結婚し、間もなく 2 人の子供が生まれた。

蒋経国と妻ファイナ・ヴァフレワ(蒋方良)

 1936 年 11 月 16 日、蒋経国は、自分をソ連共産党員候補から党員に昇格させてほしいという申請を書いた。そして、そのなかで、彼は再び父、蒋介石への否定的な態度を鮮明にした。

 「私の父、蒋介石は偉大な中国革命に対する裏切り者で、変節漢であり、今中国で起きている邪悪な反動の責任を負っている。父が裏切った最初の瞬間から、私は父と戦ってきた」。

蒋経国と妻ファイナ・ヴァフレワ(蒋方良)が中国にて

 しかし、数年後、将来の台湾の指導者は、自分がそのような発言をしたのは、強要されたからにすぎないと認めた。

帰国

 蒋経国のソ連でのその後の生活は、謎に包まれている。ソ連共産党員になったのも束の間、彼は共産主義の理想を共有しなくなり、中国への帰国についてますます考え始めた。そして、彼は、どんな事情によるのか、とにかくそれに成功した。1937 年 5 月――スターリンの「大粛清」のピークだ――、彼は仕事を辞めてモスクワに戻り、そこから家族とともに列車でソ連から出国した。

蒋経国、1940年代前半

 ウラルで単純労働に従事していた者が、このような旅行をできるわけがなかった。最も信憑性の高い説によると、蔣介石の息子は、スターリン自らの命令で父親のもとへ送られたという。増大する日本の脅威に直面して、ソ連の指導者は、国民党との関係を正常化する必要があったからだ。

蔣介石、宋美齢(蔣介石の妻と蒋経国の母)、蒋経国

 蒋介石はすぐに息子を許し、彼を身近に置いた。ファイナ・ヴァフレワも歓迎された。彼女は、「正しく立派な配偶者」を意味する中国名「蒋方良」を与えられた。

 共産主義者ニコライ・エリザーロフは、永遠に過去の存在となり、代わって蒋経国は、中華民国で最重要人物の一人となった。1946年、二国間関係の発展についてスターリンと交渉するためにソ連に赴いたのは彼だった。

 1949年、中国人民解放軍に、中華民国の政府軍は敗れ、蒋介石の支持者は、台湾へ撤退する。その後、蒋経国は父から特務機関を任され、国内の敵の捜索、掃討を始めた。その結果、残酷な弾圧、粛清の波が台湾を覆った。

蒋経国の家族と蔣緯国(弟)の家族、1950年

 蒋経国は、父の死後まもなく総統に就任し、中華民国(台湾)の舵取りとなった。彼は、その経済的繁栄と「アジアの虎」への変容のために甚大な貢献をした。しかし総統自身は、ソ連で身につけたごく質素なライフスタイルが特徴で、収入の大半を慈善団体に寄付した。

蒋経国、1976年

 台湾のファーストレディーも同様に控えめに振る舞った。1988年に夫が亡くなった後、彼女は大統領の妻の年金を拒否し、官僚の妻としての遥かに少ない年金に甘んじた。ファイナ・ヴァフレワは、ほぼすべての子供たちより長生きし、余生を老人ホームで過ごした。2004年に台北で、ウラル重機械工場のかつての労働者は、台湾の主要政治家らが参列するなか、丁重に葬られた。

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