イワン雷帝(絵葉書、20世紀初期)
Michael Nicholson/Corbis/Getty Images父親が死亡したのは、世継ぎたる彼がわずか3歳のときだ。形式的には同じ年にイワンは全ロシアの大公になったが、もちろん、国を治めることはできなかった。古い貴族階級の代表である有力な大貴族たちが権力闘争を繰り広げていた。
彼は8歳で孤児になった。彼の後見人に任ぜられたシュイスキー公一族は彼を軽んじ、彼の回想によれば、十分な食事さえ与えられなかった。歴史家セルゲイ・ソロヴィヨフは、つらい少年時代こそがこの皇帝の残忍な性格を形成したと考えている。
イワンは1547年、成人に達した日に戴冠した。イワン以前にはモスクワ・ルーシの支配者はすべて大公の称号を持っていたが、彼は初めて、ローマ皇帝「カエサル」の名に由来するツァーリ(皇帝)を名乗った。これは西欧の「皇帝」と同じく、その権力が直接、神に起源をもつとされている。
この称号はヨーロッパの君主らの目からすれば、ロシアとその支配者にそれまで以上の重みを与えるものだった。イングランド女王エリザベス1世、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世ハプスブルグ、その他が、イワン雷帝を皇帝と認めた。イワンはエリザベスと長く文通し、言い伝えによれば、彼女に求婚したという。彼女はイワン雷帝の申し出を断ったが、まさしくこのイワンの治世にロシアとイングランドは通商関係を結んだ。
イワン雷帝
Klavdiy Lebedev青年時代にイワン4世は先進的な治世を行おうと努めていた。1549~1560年には非公式の選抜者会議政府(側近や貴族、聖職者階級の若き代表者らのグループ)とともに国を指導した。
選抜者会議は一連の重要な改革を実行し、権力を皇帝の手に集中させ、大貴族らの権限を制限した。しかしその後イワンは選抜者会議を解散し、自分ひとりによる支配を開始した。
選抜者会議時代に代わり、1565年に登場したのが、残酷な弾圧の時代である直轄領政治だ。皇帝はロシアの領土を、大貴族が権力を保持する特別統治地(ゼムシチナ)と、選抜した「オプリチニキ(国家親衛隊となった護衛兵)」の助けを借りて皇帝が直接管理する直轄領(オプリチニナ)に分割した。
直轄領政治の中核になったのは、同時代人だったドイツ貴族タウベとクラウゼの証言によれば、皇帝イワン自らが率いる独自の「教会騎士団」だ。団員は修道士のような服装をして、皇帝と共に祈りを捧げた。彼らのシンボルは犬の頭と箒(ほうき)。「これは、彼らがまず犬のように咬みつき、その後、すべての余計な者たちを国外に放り出すという意味だ」とタウベとクラウゼは書いている。
1572年までにオプリチニキは大貴族とその擁護者らに対するテロを実施し、家族ら全員とともに虐殺した。「婦女子の殺害、背信を非難された者たちの妻への嘲笑的暴言、残酷な拷問による公開虐待にまで及んだ」と歴史学者ドミトリー・ヴォロジヒン氏は書いている。歴史家らの評価によれば、その時、4500人以上が殺されたという。
イワン雷帝はカザン・ハン国を1552年に併合した
Getty Imagesイワン雷帝は、国土を拡大しようとして、治世の全期間にわたって戦争した。一方で彼はカザン、アストラハン・ハン国を粉砕して両国をロシアに併合した。彼の時代にヴォルガ川沿岸地方と沿ウラル地方がロシア国家に併合され、広大なシベリア各地の開発が始まった。
他方、ロシアは1558~1583年の、ポーランド・リトアニア連合とスウェーデンを相手に戦ったリヴォニア戦争に敗北し、バルト海への出口を獲得できなかった。またロシア中央部は数十年にわたって、クリミア・タタールの襲撃により破壊された。
イワン雷帝の命令により殺された者の中には聖職者もいたが、彼は心から神を信じ、惜しみなく修道院に寄進した。教養があり雄弁家だったイワン4世は、デンマークの印刷業者の助けを借りて、モスクワにロシアで最初の印刷所を設立し、聖職者らに対して、子供たちに読み書きを教える学校を作るように命じた。彼の時代にモスクワに音楽院らしきものさえ現れたほどだ。
一方、彼はきわめて残忍で復讐心が強く(とくにオプリチニナ時代に顕著だった)、みずから、手の込んだ刑罰についての命令を出した。「我らは自分の奴隷を可愛がるのも自由、刑罰を与えるのも自由だ」とイワン雷帝は言った。
「イワン雷帝と息子イワン」
Ilya Repin/Tretyakov Galleryイワンは少なくとも6人の女性と離別、死別し、8人の子供がいたが、そのほとんどが夭折した。同名の次男イワンが死亡したのは1581年だが、一連の年代記の記述によれば、皇帝は口論の際に錫杖で皇子を殴り、偶然に殺してしまったという。一部の研究者はこの話を架空と考え、皇子は病死したと推測している。トレチャコフ美術館の最も有名な絵画の1つであるイリヤ・レーピンの『イワン雷帝と息子イワン』はこの伝説を主題に描かれた。この絵では、狂気の眼差しをした老人イワン雷帝が、自分がしでかしたことの恐ろしさを自覚し、瀕死の息子をかき抱いている。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。