冬宮の襲撃:100年前いかにボリシェヴィキは権力を掌握したか

襲撃の再現

襲撃の再現

Mary Evans Picture Library/Global Look Press
 1世紀前、急進的なボリシェヴィキが、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)を制圧。ロシアの70年におよぶ共産主義時代が幕を開けた。皇帝の権力の象徴であった冬宮は、このとき、ボリシェヴィキに抵抗する、首都の最後の拠点だったが、抵抗は長くは続かなかった。

 怒れる群衆、銃撃と叫喚。負傷し路上でひざまずいている男が、息を引きとる前に、人々に対し、専制への聖なる戦いを続けるよう促す。無限の奔流のように人々が走り、巨大な門に登り、ついに!彼らは宮殿のなかに突入する。革命は勝利し、「ウラー!」の大歓声。叫び声は雷鳴のごとく轟きわたる――。

 これは、有名なソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが描いた、10月革命のクライマックスだ。つまり、映画「十月:世界をゆるがした10日間」に“再現”された、冬宮の襲撃である。

 冬宮は、長きにわたり、サンクトペテルブルク(当時はペトログラード)におけるロマノフ家の宮殿だった。このシーンは間違いなく、情熱に満ち溢れ、革命の一つのシンボルとなった。もし、この場面に一点問題があるとすれば、それが現実に起きた事件とまったく異なることだ。

 

冬宮殿の襲撃

窮地に陥っていた臨時政府

 現実はこれほどヒロイックではなかった。1917年11月7日(1918年まで使用されていたユリウス暦では10月25日)までに、2月革命とニコライ2世の退位(同年3月)の後に成立した臨時政府は、弱体化していた。根本的な変化を国にもたらすことができず、拡大する抗議行動に直面し、もはや首都ペトログラードの支配さえ怪しかった。

 ペトログラードの守備隊は、臨時政府首班のアレクサンドル・ケレンスキーに対し不満を募らせていた。その数週間前に彼は、首都に駐屯する連隊を前線に送ろうと試みた(当時はまだ第一次世界大戦が進行中だった)。

 兵士たちは戦うことを望まず、前線派遣を拒否。やがて武装蜂起を主張する、急進的なボリシェヴィキへの支持が増していった。

 11月5日、ウラジーミル・レーニンとレフ・トロツキーが率いるボリシェヴィキは、武装蜂起を開始し、次々に首都の印刷所、郵便局、発電所、銀行等の拠点を制圧し、首都の実質的な権力を奪い取っていった。

 

臨時政府の空洞化

ボリシェヴィキの砲兵が、ネヴァ川の対岸にあるペトロパブロフスク要塞から、宮殿を砲撃し始めると、幾人かの負傷兵はその犠牲となった。//冬宮殿、1917年10月25〜26日

 何よりも首都の守備隊に変化が起きたように見えた。武装した革命家たちは本部と各部隊の兵士に檄を飛ばした。「臨時政府は打倒された。今や国家権力は、ソビエトが代表する労働者と農民に移った」

 ソビエトは、社会の底辺に形成された、選出された団体で、労働者・農民・兵士の評議会であった。そこでボリシェヴィキは、指導的な立場を占めるにいたっていた。

 兵士たちは、あまり臨時政府を支持しておらず、容易になびいた。もはやケレンスキーには、基本的に軍隊は残っていなかった。11月7日の早朝、彼はペトログラードを去り、最前線からいくつかの忠実な連隊を得ようと試みた。彼は失敗するだろう…。

嵐の前の静けさ

冬宮殿、1917年11月

 一方、臨時政府の残存勢力は、まだ失われていないもの(それはもうわずかだった)を守ろうとしていた。動員可能なものはすべて動員した。コサックのほか、士官学校生、女性部隊にいたるまで。

 「宮殿内や周辺には何人の兵士がいたのか、はっきりしていない。500人から700人の間だろう。来たり去ったり、出入りがあったので」と、ロシアの歴史家ユーリア・カントルは、ニュースサイト「Lenta.ru」へのインタビューで述べている。

 夜になると、冬宮は、ボリシェヴィキ側の勢力、すなわち彼らの軍団「赤衛隊」に囲まれていた。同7日午後9時40分、ネヴァ川に停泊していた防護巡洋艦「オーロラ」が砲撃。これを合図に、攻撃開始を命じた。


対峙

 帝政の崩壊以来、冬宮はもはや皇宮ではなく、政府本部と病院に過ぎなかった。宮殿には十分なスペースがあったので、第一次世界大戦で負傷した多くの兵士がそこに運び込まれていた。そのため、ボリシェヴィキの砲兵が、ネヴァ川の対岸にあるペトロパブロフスク要塞から、宮殿を砲撃し始めると、幾人かの負傷兵はその犠牲となった。

ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ

 しかし、これ以外には、襲撃はごく静かなもので、普通の占領とは異なっていた。ボリシェヴィキが率いる10〜12人の小部隊が宮殿を攻撃している間に、ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる部隊が、宮殿の裏側にある、開きっぱなしの無防備な門を通って、宮殿に忍び込んだ。

 部隊は、巨大な宮殿のなかをあちこち捜し歩いた末、まさしく臨時政府の内閣を発見した。つまり、全閣僚が会議をしていたのだった(なぜか護衛がいなかった)。

 アントーノフ=オフセーエンコは直ちに彼らを逮捕。また、宮殿の守備隊に対しては、武器を捨てれば安全を保障すると約束した。

 

第一幕は終わったが…

冬宮殿、1917年10月26日

 こうして基本的に冬宮襲撃は、ほぼ無血で行われた。歴史家ボリス・サプノフは、次のように述べている。「ソビエトの指導者たちには、10月の革命がヨーロッパの蜂起の歴史において最も無血に近いものだったと主張する根拠があった。ペトログラードの臨時政府の歴史は、激しい戦闘をともなわずに、静かに終わりを告げた。

 この時代の嵐の最大の“犠牲者”は、豪華なワインセラー(ワインの貯蔵室)であった。兵士たちが泥酔するのを避けるために、アントーノフ=オフセーエンコは、それを撃つよう命じた。赤ワインは、あちこちの通りを流れ、下水に消えたが、そのために、戦いで多くの血が流れたという伝説が生まれた。

 しかし、真の大規模な流血は、この後に起きることになる…。

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