「海へ漕ぎ出す人々」:白海の古風な村々を帝政時代と現代のカラー写真で見る

ウィリアム・ブルムフィールド
 歴史家で建築の専門家であるウィリアム・ブルムフィールドが、ロシア北部でかつて営まれていた暮らしの木造の遺物を再発見した。これを帝政時代の鮮明なカラー写真と比べてみよう。

 20世紀初め、ロシアの化学者・写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、解像度の高い鮮やかなカラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を用いることを思い立ち、1917 年に皇帝ニコライ 2 世が退位するまでの 10 年間に、数多くの史跡を撮影した。

 プロクディン=ゴルスキーの最後の撮影旅行は、1916年の晩夏に、ロシア北部の歴史的な地区で行われた。当時、ヨーロッパでは大戦争が荒れ狂っていたが、そういう困難な時期に彼がこの地域を特別に訪問できたのは、国家委員会のおかげだ。

 彼は、白海に沿って北方の新しいムルマン港(現在のムルマンスク)まで建設された鉄道を撮影するよう委ねられた。この鉄道は、窮地に追い込まれたロシア軍に向けられた、欧米からの軍事物資を受け取るために敷かれた。

 白海は、ロシア北部の主要な地理上の「顔」だ。何世紀にもわたって、その自然の賜物は、厳しい気候に耐えるたくましい魂を支えてきた。その岩がちな西岸は、この重要戦略拠点のロシア人入植者に食料を提供する漁村を生み出した。

 1916 年のプロクディン=ゴルスキーのルートは、白海西岸に沿った古い集落付近を通っている。筆者(ウィリアム・ブルムフィールド)がこの地域を訪れたのは、そのほぼ1 世紀後、2000 年と 2001 年の夏だった。

ソロカ(現ベロモルスク):北海への入り口

 白海西岸の集落の中に、漁村「ソロカ」があった。早くも 12 世紀に築かれており、現在のカレリア共和国に位置している。その名は、島を意味するカレリア語「ソアリ」にちなんでいて、ヴイグ川河口の群島で主要な位置を占める。

 ソロカ村は、プロクディン=ゴルスキーによって鮮明な写真が撮られている。この写真では、水生環境に十分な注意が払われている。

 彼の写真に見えるランドマークの中には、二つの木造教会があり、一つは聖三位一体教会(1894 年建立)だ。もう一つは1913 年建立で、聖ゾシマと聖サワティを記念している。この二人の聖人は、白海にあるソロヴェツキー修道院の創設者だ。

ヴィグ河畔のソロカ村(現ベロモルスク)。左は「聖三位一体教会」、右は「聖ゾシマと聖サワティ教会」(いずれも1939年に解体された)。1916年夏。

*もっと読む:「ソロヴェツキー諸島:聖地の強制収容所」 

 1930 年代初頭、ソロカ村とその鉄道駅は、「白海・バルト海運河」(略称ベロモルカナル)の建設において重要な役割を果たした。この運河は、強制労働で有名だ。村は、運河の北端とされ、1938 年に名前がソロカからベロモルスクに変更された。

ソロカ村(現ベロモルスク)。ヴィグ川を見下ろす家。ボート、薪、丸太小屋もある。背景は、「聖ゾシマと聖サワティ教会」。1916年夏。

 翌年、この二つの木造教会は、国の命令によって閉鎖され、その後すぐに破壊された。ようやく2006 年に、「聖ゾシマと聖サワティ教会」が、19 世紀の木造建築様式で再建された。

ヴィルマ:自然と信仰の共生

 プロクディン=ゴルスキーがソロカで撮影した教会は現存しないが、白海西岸沿いのいくつかの村には、丸太を組んで建てた教会がある。最も叙情的な雰囲気をたたえた村の一つがヴィルマだ。

ヴィルマ村。「聖ピョートルと聖パーヴェル教会(聖ペテロと聖パウロ教会)」。南側。右背景は、村の家屋とヴィルマ川。2000年7月7日。

 この村も12 世紀にさかのぼり、ベロモルスクの南東 約30キロメートルの、ヴィルマ河口近くの塩性湿地にある。2010 年の国勢調査では、ヴィルマ村の人口はわずか22 人で、わずかに残存する木造家屋は、草が茂った湿地帯に浮かんでいるかのように見える。

 白海西岸の他の村と同じく、ヴィルマもまた、何世紀にもわたって強力なソロヴェツキー修道院の「軌道内」にあった。村と修道院の関係はしばしば一筋縄でいかないものだったが、村は物資と労働を提供し、修道院は彼らの精神的な必要に応じた。今日にいたるまで、修道院に属する製塩所の基礎跡が残っている。

ヴィルマ村。「聖ピョートルと聖パーヴェル教会(聖ペテロと聖パウロ教会)」。西側。丸太を組み、羽目板をサイディングしている。2000年7月7日。

 ヴィルマ村の主なランドマークは村の教会だ。1625 年ごろに建てられ、1759 年に再建されている「聖ピョートルと聖パーヴェル教会(聖ペテロと聖パウロ教会)」である。狭い海岸線に群がるモミその他の針葉樹の間に、その古風な構造が、生きた有機体さながらの姿で屹立している。

ヴィルマ村。「聖ピョートルと聖パーヴェル教会(聖ペテロと聖パウロ教会)」。南西側。2000年7月7日。

 「聖ピョートルと聖パーヴェル教会」には鐘楼がない。その代わり、五つの丸屋根が絶妙の配置を見せて聳えている。それはヤマナラシの銀色の小さな板で覆われ、木製の十字架を戴いている。このまさに祝祭的な「冠」は、四角くて末広がりの、独特の屋根(ロシア語で「クボヴァートゥイ」と呼ばれる)に載っている。そして、この屋根も木製の小板で覆われている。

 屋根は、突き出した蛇腹の上にあり、立方体のメイン構造の、丸太でできた壁を、過度の湿気から守っている。北部の木造建築の好例であり、機能と美しさが優美に調和している。

ヴィルマ村。「聖ピョートルと聖パーヴェル教会(聖ペテロと聖パウロ教会)」。内装。イコノスタシス(聖障。イコンはソ連時代に他の場所に移された)。2000年7月7日。

 教会の東側には、後陣(アプス)があり、樽のような形をした切妻を戴いている。西の部分には、通常の形態の、丈の低い玄関が設えられており、長い冬の間、礼拝のために暖房することができる。そして、小さな屋根付きポーチが、全体として直線的なデザインの仕上げになっている。

ヴィルマ村。「聖ピョートルと聖パーヴェル教会(聖ペテロと聖パウロ教会)」。南東側。後陣(アプス)の上に、樽のような形をした切妻がある。2000年7月7日。

 筆者(ウィリアム・ブルムフィールド)が2000 年夏にここを訪れたとき、ソロヴェツキー修道院の修道士による礼拝が時折行われていた。

コヴダ:陸と海の融合 

 白海に沿ってさらに北上すると、海岸の湿地帯があり、ゴツゴツした花崗岩が露出して、湾や入り江を見下ろしている。こうした劇的な景観のなか、ヴィルマ村の北約 400キロメートルに位置するコヴダ村には、やはり丸太を組んでつくった教会があり、奇跡的に保存されている。

 コヴダ村は、カンダラクシャ湾の近くにある。これは、白海がムルマンスク州南西部に食い込む部分の崖上だ。小さなコヴダ川がスタルツェフ入江に流入する地点を見下ろしている。

コヴダ村。丸太小屋からカンダラクシャ湾を望む。2001年7月24日。

 2010 年のコヴダ村の人口は、公式にはわずか 20 人で、筆者がその10 年前に訪れたときの半分以下になっていた。筆者が撮影した、散在する丸太小屋には、手入れの行き届いた庭があり、それらは、丘の中腹に穿たれていた。丸太の壁面には、干し魚が紐で吊るされ、陽光を浴びていた。丸太小屋と蒸し風呂(バーニャ)は、このゴツゴツした、しかし驚くほど美しい絵画的風景を完成させる。

コヴダ村。丸太小屋と蒸し風呂と納屋。背景は聖ニコライ教会と鐘楼。2001年7月24日。

 20 世紀初めには、コヴダ村は、商業の中心地として賑わっており、税関、生物研究所、多数の製材所があった(製材所になかには、イギリスとスウェーデンのものが一つずつ含まれていた)。これらの企業の名残は、近隣のレソザヴォツキー村(「製材村」を意味する)とゼレノボルスキー村(「緑の大針葉樹林の村」を意味)に残っている。

コヴダ村。丸太小屋と納屋。屋根に、覆い付きの切妻があることに注意。2001年7月24日。

 カンダラクシャ湾から内陸に向かうムルマンスク鉄道が完成したことで、コヴダ村の活動は下火となり、北方約20キロメートルの地点にある、鉄道の町カンダラクシャが有利な位置を占めることになった。

 コヴダ村は衰えたが、その主な歴史的記念碑である、小さな丸太づくりの「聖ニコライ教会」、およびこれに隣接する鐘楼が残っている。教会はこの場所に 15 世紀にはすでに存在していたが、現在の建物は、18 世紀初めに建立されたと考えられている。鐘楼もこのころに建てられた。

コヴダ村。聖ニコライ教会と鐘楼。南西側。2001年7月24日。

 しかし、最近では、コヴダの教会の主な建造物は、16 世紀末には建てられていたとの説が出ている。つまり、この村をスウェーデンが襲撃し荒廃させた後だ。このより早い建立時期が受け入れられれば、聖ニコライ教会は、白海地域で現存する最古の木造教会となる。

 建立時期はひとまず置いて、教会を見よう。教会の基本的な構造はシンプルで、東側に祭壇を含む後陣がある。主要部分は、二重の屋根を戴く立方体。天辺には、横に広がった、ずんぐりした形の珍しい丸屋根がある。その丸屋根には、十字架を支える、小さな球形の突起が付いている。

 聖ニコライ教会へは、玄関部分を通って入る。この玄関が、主要な建造物の西側に追加されたのは 18 世紀半ばと思われる。この古風なデザインでは、玄関と主要建造物は、あまり構造的に調和していない。玄関は、主要構造物より幅広いし、より太い丸太でできている。ちなみに、この教会の建築群は、かつては墓地に囲まれており、それは、丸太の低い壁で区切られていた。

コヴダ村。聖ニコライ教会。鐘楼から西側を望む。2001年7月24日。

 19 世紀の木造教会のほとんどと同様、聖ニコライ教会は、羽目板がはられてサイディングが施されている。こうした例は、この地域全体で、プロクディン=ゴルスキーの写真に見られる。しかし、このサイディングは、ソ連時代に保存の試みの一環として取り除かれた。

コヴダ村。丸太小屋の壁に干し魚が吊るされている。2001年7月24日。

 コヴダ村の聖ニコライ教会は、1960 年に閉鎖されたが、ソ連崩壊後の1990 年代に、文化遺産として、修復が完了。鐘楼は簡素化された形で再建され、教会自体の修復は2003年に始まった。ただ、その適切な形をめぐり、頻繁に論争が起きたり、工事が停止したりした。

 聖ニコライ教会には現在、人為的な外観のサイディングが施されているが、筆者は今世紀初めに、オリジナルの丸太の構造を撮影することができた。教会の話は別としても、コヴダ村の置かれた物理的条件は、陸と海との驚くべき「精神的な」融合の姿をなしている。

コヴダ村。丸太小屋からカンダラクシャ湾を望む。2001年7月24日。

 20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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