才能溢れるシチェドリンは若くしてペテルブルク絵画アカデミーに入学し、卒業制作で金メダルとヨーロッパ旅行のための奨学金を手にした。1818年、シチェドリンはイタリアを訪れたが、この国に魅了され、残りの人生をここで過ごした。彼にとって重要なのは戸外制作だったが、自身の技法を発展させ、色彩、色調にこだわった。ローマ、ナポリ、ソレントなどの風景を描いた作品はロシアの主要な美術館に保管されており、19世紀初頭のロシア芸術にとって革新的なものとなった。
コロッセオ、1819年
トレチャコフ美術館新ローマ、サンタンジェロ城、1823-25年
トレチャコフ美術館ソレントのテラス、1825年
トレチャコフ美術館イスキヤ島とプロチド島を望むソレントの小さな入江、1826年
トレチャコフ美術館ナポリの月の夜、1828年
トレチャコフ美術館ブリューロフは長年にわたりイタリアに暮らし、イタリアを題材にした作品を複数残している(「イタリアの朝」はニコライ2世夫人のアレクサンドラ・フョードロヴナに贈られている)。ブリューロフはギリシア、トルコなども旅し、いくつかの風俗画を描いた。外国での生活を総括する最大の作品となったのは、もっとも有名な「ポンペイ最後の日」。ヴェスヴィオ火山の噴火によるカオスと恐怖が再現されている。
イタリアの朝、1823年
Kunsthalle, Kielナポリの田舎でブドウを摘む少女、1827年
ロシア美術館ポンペイ最後の日、1833年
トレチャコフ美術館イタリア女の告解、1830年
トレチャコフ美術館アルバーノを歩く、1833年
トレチャコフ美術館ミラカ村のギリシアの朝、1835年
プーシキン美術館フィガリアのエピクロス・アポロン神殿、1835年
プーシキン美術館マデイラ諸島の風景、1850年
ロシア美術館アイヴァゾフスキーは海を題材にした絵画を中心に描いた。ロシアでもっとも有名な海洋画家であるアイヴァゾフスキーは、サンクトペテルブルクのネヴァ川、黒海、クリミアなど祖国の海の絵を数多く残した(クリミアでアイヴァゾフスキーが好んで絵を描いた岸壁には、彼の名がつけられている)。しかし、アイヴァゾフスキーはヴェネツィアやナポリ、トルコのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)などの風景画も描いた。アイヴァゾフスキーはヨーロッパの最端であるリスボンも訪れた。
ヴェネツィア、1842年
ペテルゴフ宮殿月夜のナポリ湾、1840年代
ロシア美術館コンスタンチノープルとボスポラスの風景、1856年
個人所蔵リスボン、日の出、1860年代
個人所蔵コンスタンチノープル、日没、1899年
アイヴァゾフスキー記念フェオドシヤ美術館19世紀から20世紀にかけての主要な舞台美術家の一人であるコローヴィンは題材を求めてたくさんの旅をした。また1900年に開かれたパリ万博のロシア館の監修を行ったコローヴィンは、フランスをなんども訪れている。このほか、フランスの印象派の多大な影響を受けており、パリをテーマにした作品にはそれが色濃く現れている。1920年代にコローヴィンはソ連からパリに亡命した。
パリのカフェ、1890年
トレチャコフ美術館ハンメルフェスト、オーロラ、1894-95年
トレチャコフ美術館バルコニーにて。スペイン女性、レオノラとアンパラ、1888-1889年
トレチャコフ美術館パリ、カフェ・ド・ラ・ペ、1906年
トレチャコフ美術館ヴェネツィア、リアルト橋、1908年
ウクライナ国立美術館パリ、サン・ドニ、1930年代
ヤロスラヴリ美術館パリを愛したもう一人の画家は、「ヴォルガの船曳き」で有名なレーピン。絵画アカデミーの奨学金で、ヨーロッパを旅したレーピンは、ローマやラファエロにはあまり魅力を感じず、フランスの首都パリに落ち着くことにし、ここで工房を借りたほどであった。ロマンティックな街で過ごした数年のうちに、傑作「水の下の王国のサトコ」を描き上げたほか、パリをテーマにした有名な作品を複数残している。
パリでニュースを売る男、1873年
トレチャコフ美術館パリのカフェ、1875年
個人所蔵庭園の壁に立つ少年、モンマルトル、1876年
サラトフ美術館スリコフは何よりもロシアの歴史をテーマにした壮大な作品「銃兵処刑の朝」、「大貴族夫人モロゾワ」、「アルプスを横断するスヴォロフ」などで有名であるが、イタリアとスペインを訪れた後に描いた素晴らしい水彩画も同じようによく知られている。
ミラノ、1884年
個人所蔵ローマ、1884年
個人所蔵ヴェネツィア、1900年
トレチャコフ美術館セヴィリア、1910年
個人所蔵セヴィリアのサンフェルナンド広場、1910年
個人所蔵セヴィリア、1910年
個人所蔵アルル、闘牛、1910年
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