ロシア・バレエを有名にしたバレリーナ5人

マチリダ・クシェシンスカヤとニコライ・ソリャンニコフ。マリウス・プティパが振り付けた「フローラの目覚め」

マチリダ・クシェシンスカヤとニコライ・ソリャンニコフ。マリウス・プティパが振り付けた「フローラの目覚め」

RIA Novosti
 ロシアのバレエ界には、世界的に活躍した偉大なバレリーナがいた。初めてのつま先立ち、皇家との関わり、ロシア革命の影響...どんなバレエ人生だったのだろうか。
  1. アヴドチヤ・イストミナ(17991848

アヴドチヤ・イストミナ、1820年代

 イストミナが舞台で活躍していた時代は、バレエのネット掲示板どころか、新聞の雑報すらなかった。だがロシア人の潜在意識の中ではバレリーナというとイストミナである。アレクサンドル・プーシキンが小説「エヴゲーニイ・オネーギン」で、その「魂に満ちた飛行」について描いた「ロシアのテルプシコラ」は、イストミナである。プーシキンと同い年で、あの世代のアイドルだった。標準的な意味の「美女」という言葉は当てはまらないが、黒い瞳の炎のきらめき、上品さ、均斉のとれた体で魅了していた。

 ペテルブルク(サンクトペテルブルク)演劇学校に入り、早くからプロの舞台で活躍し、17歳で一流ソリストとして卒業した。フランス人シャルル・ディドロの教育活動により、ペテルブルクの舞台ではバレリーナの競争が激化していた。イストミナの成功は例外的であった。美しさ、古代彫刻の可塑性と、演劇的才能、妙技を組み合わせ、つま先立ちした初期のバレリーナの一人とも言われている。

アヴドチヤ・イストミナの肖像、1815年〜1818年

 イストミナのプライベートな生活も成功したかのように見えた。飲んだくれの市警察長官の娘で6歳の時に完全に孤児になったが、貴族のような生活を送ることになった。だが18歳の時、「二重の決闘」の原因となり、恋人のワシリー・シェレメチエフ伯爵は死亡した。

 プライベートは演劇的な生活には影響をおよぼさず、その後もずっと華麗に踊り続けた。強靭な脚が弱くなり始め、治すための休暇を申し出た時、皇帝ニコライ1世自らがこう命令を下した。「イストミナを完全に引退させること」

  1. プラスコヴィヤ・レベジェワ(18391917

プラスコヴィヤ・レベジェワ

 彗星のごとくバレエの天空に登場したレベジェワ。8歳でモスクワ演劇学校に入り、10歳の時にボリショイ劇場の演劇に出演し、16歳で最初の主役を演じた。批評家は、技術面でのレベジェワのライバルは、ペテルブルクのマルファ・ムラヴィヨワ一人だと書いた。表現面ではライバル不在であった。

 学校に通っている時にすでに、才能あるダンサーが限られていたモスクワのバレエ団で、一流バレリーナの地位についていた。1857年に正式に加入し、ペテルブルクにひんぱんに招かれるようになり、パリ・オペラ座でのデビューも決まった。パリ・オペラ座の幹部が直々に条件を整えたロシア初のバレリーナであったが、順調に行われた全体リハーサルの後、技術的な理由により、公演はキャンセルになった。

プラスコヴィヤ・レベジェワ

 レベジェワはジゼル、エスメラルダ、「ファウスト」のマルガリータの悲劇的な役で、当時の人に衝撃を与えた。ムラヴィヨワが引退した後、命令により、モスクワからペテルブルクに移された。ファンの数は増え、新たな役も次々にまわってきた。

 28歳の時、舞台で目を火傷し、部分的に見えなくなり、引退せざるをえなくなった。それでもプライベートな生活は幸福であった。名家のシロフスキー家の男性と結婚し、母校で教鞭をとった。

  1. マチリダ・クシェシンスカヤ(18721971

マチリダ・クシェシンスカヤ、バレエ「ファラオの娘」

 ペテルブルク演劇学校の卒業生だったクシェシンスカヤに、皇帝アレクサンドル3世がどのような言葉をかけたのかははっきりとはわかっていない。クシェシンスカヤの記憶によれば、「ロシア・バレエの飾りと誇りになってほしい」と言われたようである。1890年4月はクシェシンスカヤの人生にとって、別の意味でも重要な時となった。皇位継承者であるニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフと出会ったのである。2人の恋愛は現在でも注目の話題であるが、当時もペテルブルク中で噂になっていた。

 クシェシンスカヤには、自分の特別な地位をキャリアに利用する能力があった。だが踊りの完成度は、皇室席の常連と同じぐらい、マリインスキー劇場の全4段の観客を魅了していた。

マチリダ・クシェシンスカヤ

 クシェシンスカヤほど自分の行動でマリウス・プティパを怒らせたバレリーナはいなかったが、バレエ史において、マリウス・プティパの理想的なバレリーナとなり続けている。「ファラオの娘」の劇的な状況、「リーズの結婚」の喜劇的な状態で魅了し、「エスメラルダ」では可哀想なジプシーを演じながら、身に着けたダイヤモンドの輝きを消すような悲劇的なシーンで夢中にさせた。

 クシェシンスカヤの人生で宝石に飾られた時期は長くはなかった。ロシア革命が起こった1917年、15歳の息子とともに、ペトログラード(サンクトペテルブルク)の邸宅を密かに去り、その後ロシアを出国した。亡命先のフランスではバレエ・スタジオを開いた。ここではイギリスの未来のレジェンド、マーゴ・フォンテイン、フランスのバレリーナ、イヴェット・ショヴィレなどが学んだ。

  1. アンナ・パヴロワ(18811931

アンナ・パヴロワ

 飛行機のなかったこの時代に、アメリカ、インド、オーストラリア、日本、アルゼンチン、ウルグアイ、キューバなど、世界各地で何度も公演を行った。パヴロワの演技が初めて観た舞台上のバレエだったという国も少なくない。

 公式には、両親はペテルブルクの洗濯婦と退役兵士であるが、銀行員の婚外子という説も根強く残っている。幼少時代は赤貧の状態にあった。そのため、ペテルブルグのマリインスキー劇場でバレエ「眠れる森の美女」を見た時は、大きな衝撃を受けた。これほどの光、優雅さ、贅沢、美の世界を見たことがなかった。そして眠れる森の王女のように、バレリーナになって踊りたいと言い、母親を驚かせた。夢をかなえるために、人生をささげた。

アンナ・パヴロワ、1910年〜1915年

 ペテルブルグ演劇学校を卒業し、「ラ・バヤデール」、「ジゼル」で主役を務め、瞬く間にマリインスキー劇場の頂点に立った。また、ヴァレンチン・セロフがポスターにパヴロワを描いたことで、ジャギレフの「バレエ・リュス」の初期のパリ公演で、象徴的な役割を果たした。ミハイル・フォキンがパヴロワのために振り付けを考えた短編劇「白鳥」、「ショピニアーナ」のワルツ第7番は、そのままパヴロワのイメージとして定着した。バレエの動揺する主人公は当時の雰囲気を反映したもので、行く先々で観衆からの理解を得ることができた。 

  1. オリガ・スペシフツェワ(18951991

オリガ・スペシフツェワ、1917年

 スペシフツェワがプリマ・バレリーナと呼ばれるようになったのは10月革命の後である。この時にはすでに、皇帝も、帝国バレエもなく、ペトログラードと改名された街で、消滅した旧文化の一部として思いだされるだけであった。スペシフツェワは1913年にマリインスキー劇場でバレエ活動を始め、すぐに出世階段を駆けのぼっていった。

 特別な才能があることは、学校で学んでいる時から明らかだった。整った顔立ち、理想的なプロポーション、しなやかにあがる脚、長い手という外見の調和も、人の目を引いた。悲劇のジゼル、エスメラルダ、白鳥オデットと黒鳥オディールの役は十八番で、観客を美の破滅で魅了していった。

オリガ・スペシフツェワ、1934年

 ロシア革命のあらゆる派の活動家に注目され、1917年にソ連政府の基礎を築いた機関「ペトログラード労働者・兵士代表ソビエト(ペトロソビエト)」のボリス・カプルンの妻になった。カプルンの支援により、スペシフツェワは1924年にフランスに亡命。パリ・オペラ座やバレエ・リュスで踊り、またイタリアからアルゼンチン、オーストラリアまで、世界各地を巡業した。バレエで頂点に立ちながらも、困難な時代の苦労により、精神のバランスを失った。そして、レフ・トルストイの娘アレクサンドラ・トルスタヤがアメリカの農場に招き入れた。時代の混乱を吸収しながら、ほぼ1世紀生きたスペシフツェワの人生は、多くの書籍、映画、バレエの基礎となった。

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