ワシリー・スリコフ作の「エルマークによるシベリア征服」=
wikipedia.orgシベリアは信じられないほどのスピードでロシアに帰属した。1585年にウラル東部で最初のロシア遠征隊が壊滅したが、それから54年後にはもうロシア人は太平洋に到達した。ある研究者らは、この速いテンポはシベリアの土地が平和的に編入されたことを証明していると考える。その逆に、そこに現地住民の利益の無視と侵略を見る研究者もいる。
ロシア人とシベリア先住民との接触は、16世紀のウラル東部への軍事遠征よりもはるか以前に始まった。14世紀のラヴレンチイ年代記で、11世紀のノヴゴロド住民ギュラタ・ロゴヴィチについて触れている。彼は、ウラルを指すと歴史学者らが考える「ユグラの地」への遠征に出発した。その後、最初のうちは近隣地方に出かけるノヴゴロドの商人らを警護していた武装民兵らが、幾度となく、その地方への略奪襲撃を行った。
1483年にモスクワの軍司令官らが、ウラル東部へ軍事遠征に出かけた。1555年にシビル・ハーン国(モンゴル帝国の名残)は、ロシア帝国の属国になった。だが間もなくハーン国政権は、チンギス・ハーンの子孫クチュムを捕らえて属国関係を破棄し、国内にイスラム教を広め始めた。
最初の価値ある植民地化遠征になったのは、1581年にコサックのエルマークがクチュムと戦うために行った遠征だ。
その時までに新しいハーン国はすでに、国境を接するロシア地域への攻撃を始めていた。クチュム政権は脆弱で、シベリアの多くの民族は、イスラムのハーン国よりもロシア皇帝の方を良しとした。800人のコサック部隊が15000人のクチュム軍を撃退したが、その多くの勝因は、ハンティ民族やマイシ民族が、ハーン国を守る戦いでの流血を避け始め、直ちに戦列から離れたことである。その後の数十年間にクチュムはパルチザン戦を始め、不遜な襲撃でエルマークを殺そうとさえする。しかしシベリア開発をとどめることは、もうできない。新しい遠征隊は、つぎつぎに要塞・砦を築いてシベリア建設を始め、その後、それらの入植地は大都市になっていく。1586年にチュメニが建設され(現在では人口72万人の都市)、1604年にはトムスクが(現在の人口57万人)、1628年にはクラスノヤルスクが(現在の人口100万人以上)建設された。
つぎつぎに要塞・砦がシベリアで建設され、その後、それらの入植地は大都市になっていく
征服されたアメリカとちがい、シベリアは植民地にはならなかった。ロシアには「植民地支配」と「本国支配」の違いはなく、シベリアは単にロシア帝国に加わっただけだ。さらに、現地有力者らのロシアへの統合があったのであり、彼らを一掃したのではない。例えば、ロシアと戦ったクチュムの息子は結局は講和を結び、傀儡カシモフ帝国の権力はクチュムの孫に委ねられた。
専門家らの計算によれば、シベリアには、ロシア人が来る前に24万人~30万人が住んでいたというが、それは1300万平方キロの面積の土地にということだ。ここでは抵抗勢力がロシアに中央集権化されることは少なかった。土着民同士が互いに激しく戦い、多くの者は「皇帝の御手」を内乱からの救出と受け取った。しかし東シベリアには、本気で抵抗して独立の保持を願う民族がいた。新権力はここに砦を築き、守備隊を配置したが、それでも現地住民は蜂起した。彼らは攻撃して火を放つなどしたが、コサックも同じやり方でそれに報いた。ヤクートの伝説ではロシア人は「残虐と戦闘」の人々として描かれている。
最も従順でない民族のひとつがチュクチ民族だった。彼らはコサックと激しく戦い、コサックに勝利することもあったほどだ。しかし戦闘規模は小さく、オルロワ川でのロシア軍の大敗北で死亡したコサックは51人だった。残念ながらチュクチ民族に対する皇帝権力の反応は、実際のところ、アメリカ征服者と同様な行動だった。1742年には「かの温和ならざるチュクチに対して軍事武器の手で攻撃し、全面的に撲滅する」(これらの好戦的なチュクチには、武力を用いてこれを絶滅する――編集部)という勅令が出された。
流行病に無防備だった点でも、現地住民はアメリカ・インディアンに似ていた。「新しい病気が先住民を弱体化させ、意気をくじいた。天然痘はツングース人の80%以上、ユカギール人の44%を滅ぼした」と歴史学教授のジョン・リチャーズ氏は書いている。だがそれでも、ロシアの領土拡張政策の目的は、シベリア諸民族のジェノサイドや奴隷化ではなく、彼らの貢物による課税であり、新しい土地のロシアへの編入だった。ロシア人が武力に訴えたのは、普通、外交に失敗したあとに限られていた。現在、ロシアには46万人のブリャート人、48万人のヤクート人、26万4千人のトゥヴァ人、4万5千人のドイツ人、3万8千人のエヴェンキ人、その他の民族が住んでいる。いくつかの民族は、民族の独自性と言語を保つことができた。ヤクーチヤ(現・サハ共和国)にはロシア人よりも多くのヤクート人が住んでいる。
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