写真提供:Flickr, quicheisinsane
デビッド・ボウイの話は以前からウラジオストクで語られていたが、非現実的で半信半疑に受けとめられていた。というのも、海軍の街ウラジオストクは1992年まで、外国人の立ち入りを一切許可しない閉鎖都市だったからだ。
都市伝説ではなかった
歴史学者で、ロシア地図協会の会員であるセルゲイ・コルニロフ氏はこう話す。「この伝説は昔からあった。デビッド・ボウイとイギー・ポップがウラジオストク市内の通りで路上ライブをしたとか、ソ連と中国の国境を違法に超えたとかいう話も何度か聞いたことがある。ただ、他に存在した作り話と同じたぐいのものと考えられていた。例えば、ウラジオストクの中央広場の銅像(ラッパを手に持った赤軍パルチザン)が、ピンク・フロイドの一枚目のアルバム『夜明けの口笛吹き』の発売を記念したものだとか」。
だがウラジオストクのジャーナリスト、ルスラン・ワクリク氏は、この伝説を裏づける証拠を見つけた。デビッド・ボウイのソ連行きに同行した、UPI通信 のロバート・ミュセル記者の出版物と、デビッド・ボウイが広報係のチェリー・バニラ氏に書いた手紙だ。これらの書類から、1973年春、実際にシベリア鉄道でロシア全土を移動したことが明らかになった。モスクワの赤の広場で撮影されたデビッド・ボウイの写真もある。これは長きに渡って偽物と考えられていた。
米ソの緊張緩和が背景に
1973年、ソ連とアメリカの関係は少し改善した。そして翌年、ウラジオストクではソ連のレオニード・ブレジネフ書記長と、アメリカのジェラルド・ フォード大統領の会談が行われた。ソ連への外国人の訪問はこの時期、少し緩和されていたのかもしれない。
デビッド・ボウイは日本で公演を行い、横浜港からナホトカ港(ウラジオストクの東約180キロメートル)行きのソ連のクルーズ客船「フェリックス・ジェルジンスキー」号に乗船。船内では乗客のために、小さなライブも行った。ナホトカは閉鎖都市ではなかったため、国際的なイベントがしばしばここで行われるなど、当時この地域で中心的な役割を担っていた。ノルウェーの有名な探検家トール・ヘイエルダールや、その他の外国の著名人がここを訪れている。
デビッド・ボウイは、飛行機恐怖症に苦しんでいたと言われている。船と列車の選択はこれで説明がつく。ただ、ウラジオストク―モスクワ間の列車に、どこから乗車したのかはわからない。ナオトカはシベリア鉄道沿線にはないため、ウラジオストクまで行ったか、あるいは他の駅を利用したことになる。
「髪の色はド派手だった」との地元証言
「列車に乗ったのだから、ウラジオストク周辺には来ていると思う。ウラジオストク駅か郊外のウゴリナヤ駅。レッドのボトムスにグレーのコートといういでたちで、髪の色はド派手だったと言われている」とコルニロフ氏。港町とは言え、保守的な格好をしたソ連市民を背景に、相当目立っていたようだ。だがデビッド・ボウイ が確かにウラジオストクに来たことを証明する書類は、まだ見つかっていない。地元住民の中にはいまだに、この話がすべて空想物語だと思っている人もいる。
デビッド・ボウイの手紙にはこう記されている。「シベリアは信じられないほど雄大だ。壮大な森、川、広々とした平野にそって何日間も走った。世界にこれほどの広さの未開の自然が残っていたなんて、思いもしなかった」。ミュセル記者のメモの中身はこうだ。「シベリアに住む人々が非常に友好的なこと、そして モスクワに近づくにつれ、人々はより無愛想になっていくことに気づいた」。
歴史的旅客たち
デビッド・ボウイ以外にも、さまざまな著名人がシベリア鉄道を利用。シベリア鉄道の東門であるウラジオストク駅には、アレクサンドル・コルチャーク白軍 総司令官、ベトナムのホー・チ・ミン主席、北朝鮮の金正日総書記らが訪れている。イギリスの小説家で、スパイとしてロシア入りしたサマセット・モームが、 1917年にウラジオストク駅のレストランで昼食を取っていたことを証明するものもある。アメリカで20年間亡命生活を送った後にロシアに帰国した、作家のアレクサンドル・ソルジェニーツィンも1994年、ウラジオストクからシベリア鉄道に乗ってモスクワに行った。
ウラジオストクからモスクワまでの所要時間は約1週間で、7本の時差帯をこえる。最初の数日間は大都市を見ることはない。ウラル山脈をこえて、さらに西 へと走ると、より人口密度の高い街が現れ始める。飛行機の窓から見下ろすのではなく、地上でゆっくりとロシアをながめるために、モスクワからウラジオスト クまで列車で移動する旅行者も多い。だが復路は飛行機を利用するのが一般的。ロシアの列車の中で1週間過ごせば、冒険心もすっかり満たされるというわけだ。
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